ボクたちはみんな大人になれたのだろうか
先日、Netflix作品「ボクたちはみんな大人になれなかった」を見ました。
(映画の詳細や正確なあらすじなどは自分で調べてください。今回は僕個人が感じた感想をつらつらと書いていきます。)
公式サイト
映画について
以下、僕個人の解釈です。
この映画は、現在43歳の会社員男性(主人公)が現在から過去へ回想をしていく話です。主人公は内気な性格で、人生の中で出会ってきた人々から様々な言葉を浴び人格が形成されていく様子が描かれていました。
映画を見てレビューを書くことなんか無い僕がなぜ今回書いているのか、それは最近”普通の大人”っていうのが何かよくわからなかったから。なんか映画を見終えてもモヤっとした感情が残ってて。
だからこの映画を見て何となく浮かんだ感情を言葉として成仏させたくて書いています。
映画内の注目するポイントは、”普通の大人とは”、”普通の大人になるべきか”。
主人公は出会う女性から、「フツーだね」とあざ笑われたり、「フツーが一番」と押し付けられたり、「フツーって素敵だよ」と羨ましがられたりします。その中で内気で影響を受けやすい主人公が43歳になった今現在何を思うか、的な部分です。
世間と普通と大人と僕
僕は幼少期に”普通”にあこがれ、”普通な人間”を目指しました。だけど歳を重ねるにつれ”普通”を手に入れると、”普通”を煙たがり、”普通じゃない人間”を目指しました。
でも24歳になり、”大人”というレッテルにぶつかっています。大人っていうのは普通に生きることが真っ当で、普通に生きることで世間から受け入れられる存在です。
だからこそ普通じゃない人間は世間とのギャップを感じます。
「普通じゃない人間を目指していたならそれでいいじゃないか。」そう思うでしょう。
でもそれじゃあ世間から突き放されるんです。わがままだけどそれって嫌じゃない、、、。
だから自分の中にある普通が嫌な感情と世間が求める普通とで擦り合わせていく必要があります。
でもそんな擦り合わせって中々難しい。その答えを見つけようとしても簡単に導きだせません。それでも世間とのギャップは埋まらないまま。
そういう苦しさやもどかしさを絶賛感じているわけです。
思考のクセのおはなし
そんな中、ある人に今の若者たちと昔人たちの思考の違いのお話を聞く機会がありました。
若者は平面的な思考で、昔人は多面的な思考を持っている、みたいな話。
今はIT革命もあり相手と繋がりたいときに繋がれて、相手とのコミュニケーションが容易になりましたよね。方や、簡易的なコミュニケーションが主流となり、すぐに答えを得やすい世の中にもなってしまったそう。確かにネットで調べたらすぐに答えも見つかるし、ネットの仕組みもユーザーがすぐに答えを見つけやすいようアシストをしてくれます。
思考する習慣がなくなりつつあるということであり、だからこそ僕たちは答えをすぐに求めたがるクセがあるらしいです。
一方で、昔人は少なくわかりづらい情報の中から答えを見つけてきたので、思考の深さや回数が多く様々な答えを生み出していくんだそう。ざっくりいうとこんな感じ。
つまり、凄く端的に言うと物事には色々な答えがあってそれを人生の中でゆっくりと思考して見つけていけばいい、っていうことなんですかね。
悩みもがき続ける=人間らしさ?
さて、話を戻します。僕は普通の大人とは何だろうって思ったり、世間とのギャップを感じたりして悩んでいます。
みんなにも色々な悩みがあるでしょう。日々の小さな悩みだったり、自分だけにある生きていく中で大きな足かせになっている大きな悩みだったり。 僕にもみんなに言えないような悩みは沢山あります。
どんな悩みでも解決はしたいものだけど、簡単に受け入れたり解決できたりしないから悩んでいるわけでもありますからね。
でもこの映画をみたり、色々な話を聞いたりしてると、案外答えや解決策なんてすぐに見つけなくてもいいものっぽい?
悩みっていうのは他者と比較して生まれるものだと思っていて、もちろん世間や周りと比べて悲観的になることは当然あります。でも焦って解決策を求めても見つからないんだし、とりあえずは今日も1日生きてればいいんですかね。(世間は急かすけど泣)
「人間は考える葦」っていうし。ゆっくり悩みながら人生を歩もうかなって思ってます。
だって映画の主人公も43歳になった今でも”普通”について悩み、考えているんだから(笑)
(本記事は感情の吐き出し会なので推敲していません。記事内容の薄さや文章の構成力はご了承ください、、、。共感される記事内容ではないと重々承知しています。むしろ批判的な意見の方が生まれるでしょう。特に何かを訴えたいわけでもなくただの記録用なので悪しからず。最後に、この記事を見つけて読んでくれたあなた、本当にありがとう。)